「かっこいい」を考える

かっこいいってどういうことだろう。
かっこよくありたいと日々願う。
舞台を見てくれた友人は「かっこよかった」と言ってくれるけれど、ん?既に過去形?目の前にいる今の自分はかっよくないのかしらん、なんて。いや、そんなふうには言っていない。舞台の感想なのだからそれでいいのだ。もちろん分かる。
でも、舞台の上だけが人生のすべてではない。むしろ、舞台の上で過ごす時間よりそれ以外の時間の方が圧倒的に長い。たとえば、イチローはグラウンド上ではもちろんかっこいいけれど、グラウンドを離れてもなおかっこいい。それはきっと、彼に人間的な魅力が備わっているからだと思う。
素の自分には一体どれほどの魅力があるだろうか。いや待て。イチローにオンオフの切り替えっていう概念はあるのか?彼に「野球人イチロー」でない時間はあるのか?素の状態で意識レベルが既にオンなのではないか?
最終地点が明確に見えている人と見えていない人とでは、その行動に明確な差ができる。足を踏み出す最初の一歩で既に違いがある。舞台の外でもかっこよくありたい。「顔」でなく「顔つき」。行動の核となるもの。目的地が明確であれば、そのための行動も明確であるはず。「かっこよさ」はきっと、自分がどこまでいきたいのか、どんなかっこよさを目指すのかが定まっていることが前提で、何気ない振る舞いや所作の中にも自然とにじみ出てくるものなのだろう。スーパープレイばかりではなく、存在そのものがかっこいいとかそういう種類の。
最近、どうもふらついている感じがする。自分の行動が行きあたりばったりなように思える。
考え方の軸、目指すべき方向性が確実でないからかも知れない。もちろん、楽器もダンスも旗も演技ももっとうまくなりたいという気持ちはあるけれど、行動の源はそこではないはず。なぜもっとうまくなりたいのか?という原点にもっともっと強い明確な意思がなければ。この前の公演まではもっとずっとシンプルにみえていたと思ったのに。公演後でちょっと時間がある時期だからかな。色々考えすぎてしまう。いや、考えてなさすぎなのか。どっちだ。